通信使は柳川事件の翌年に
通信使は柳川事件の翌年に、それまで柳川家主導で応対されていたものが対馬宗氏の手によって招かれた。これは幕府によって宗氏の力量が試されたという側面も存在している。ここにおいて接待、饗応の変更がなされた。これは日本側の主導によるもので、変更の骨子は、第一に、朝鮮側の国書で徳川将軍の呼称を日本国王から日本国大君に変更すること(この「大君」呼称の考案者は京都五山の高僧・玉峰光璘である)、将軍側の国書では「日本国源家光」とした。第二に親書に記載される年紀の表記を干支から日本の年号に変更するということ、第三に使者の名称を朝鮮側が回答使兼刷還使から通信使に変更するというものである。将軍の呼称変更と、年紀表記変更の理由は次のように説明される。
そもそも「国王」称号や「干支」の使用は中華秩序における冊封体制の残滓であり、中華帝国を頂点として周辺諸国を従属国視する、伝統的東アジア外交秩序そのものであり、いまこそ、その体制から離脱を図り、かつ朝鮮側にもそれを認知させようとしたのだ、という論である[誰?]。その一方で「国王」称号は国内的には天皇をさすため、これに遠慮し次善の策として「大君」を用いたという、もっぱら国内的要因に鑑みての変更にすぎないではないかという論もあり[誰?]、議論の決着を見ていない。いずれにせよこの制度改定は、後述の正徳度来日の際のような深刻な外交問題には発展しなかった。
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その理由としては当時、李氏朝鮮は北方から後金の圧迫に忙殺されていたため、日本側の制度変更にあえて異論を挟まなかった、あるいは挟む余裕がなかったとされる。この来日の際には、幕府に朝鮮国王直筆の親書、銅鏡が進呈され、また使節団が神君とされる大権現家康が眠る日光東照宮を参拝をしたことが、国内的に大々的に喧伝され、幕府権威の高揚に利用された。
正徳期には待遇の簡素化と将軍呼称の変更がされた。この制度改定は新井白石の主導によるものだが、これは従来の饗応、待遇を全面的に変更するものであり、結果として日朝間の外交摩擦に発展する。通信使接遇には一度に約100万両(1両=1石換算で幕府の直轄領約400万石の1/4に相当する)かかるものであり、もともと白石は来日招聘そのものに反対であった点が注目される。しかし当時の老中首座土屋政直が従来どおり来日を招聘すべしと異論を挟んだため、白石も折れた経緯がある。